マツコラム

カルネアデスの板について考えてみる。

カルネアデスの板について考えてみる。

船が難破して、一人が板切れにつかまって救助を待っています。

もう一人の人がやってきます、

でもその板切れは一人しかつかまれません。

後から来た人は、つかまってる人を追い払わないと自分が助かりません。

つかまってる人は、その板を死守しないと自分は助かりません。

この状況で、後から来た人はつかまってる人を殺して良いですか?

先につかまってる人は、後から来た人を殺して良いですか?

どちらに船板の権利がありますか?

なんとも切ないテーマです。
でも世の中にはこの問題が山積みです。

自分が助かる為に他者を蹴落とすことを肯定しなければいけない。
それが正しかったんだと言い聞かせなければ生き延びた人も幸せになれない。
大切なテーマではありますが、そこを論じることが何かを生み出すのでしょうか?

カルネアデスの板を肯定せざるを得ないという論理は少しずつ形を変え、
自分の利益を守る為に他者の評判を意図的に落とす等「根拠の無い陰口」のような醜い行為さえも時として肯定してしまうのです。
それで得られる利益は本当に美しい物でしょうか?誇れる物でしょうか?

だからこそ、キレイ事に対して向き合いたいのです。

板がなくても生き延びるだけの泳力をつける。

もしそれを備えている人であれば板を渡すことが出来るでしょう。
もちろんその代わりに疲れた時に1分だけつかまらせて!というお願いも出来るでしょう。

「力をつける」

それは自分のみならず周りの人を助ける為なのだと思うのです。
自分が出来ないことを相手のせいにするなら、相手をフォローするだけの力を持っていなければ全く意味のないこと。
なにか問題があれば自分がリカバーできる力を持ってこそ本当に相手を守れるのだと思うのです。

格差社会と言われています。
本当に守るべき「弱者」と呼ばざるを得ない人はいます。
逆に弱者と言う看板を振りかざして庇護だけを強要する人もいます。

力をつけるチャンスを放棄し、庇護だけを求める人に対してはNoと言う勇気を持たなければいけない時もあります。

だから、力を付けたい。
どんな力だっていい、誰か他の人を救うことが出来るのであればムダな力など無い。
蹴落とす力をつけるくらいなら守る力を付けましょうよ。それが人の幸せではないですか?

宣言しておきます。
私は自分の為に力を付け、余力で人を守ります。

人を守ることが最優先とは言いません。ですが、余力でもいい、誰かが掴まりたい板を奪う人にはなりたくない。
ならば、余力を大きくする為にはまず自分が力を付けなければ。
船が沈没した時に「いいよ、俺泳いでるから」って余裕で言いたい。
緊急避難を「筋トレのチャンス」と言えるくらいの余裕を持ちたい。

ふまえて、アビバにパソコン習いに行ってきます。