マツコラム

Novaうさぎに見る「ら」抜き言葉の現状

Novaうさぎに見る「ら」抜き言葉の現状

「ら」抜き言葉という問題が今日本文化と言語学者を惑わせている、はたして「ら」抜き言葉は悪か?今日はそこらへんを検証してみる。

「いっぱい聞けて、いっぱいしゃべられる(ノバなら!)」
・・・何かヘンだ?・・うさぎの色が、じゃなくて!「しゃべられる」?良く考えれば耳馴染みの薄い使い回しである。みなさんは普段「しゃべられる」という言葉を使いますでしょうか?あえて使うなら「昨日の合コン、アイツにあることないことしゃべられて大変だったよ」等といったように受動態であることがほとんどでしょう、しかし実際には「しゃべられる」より「言われる」、「話される」の方が妥当かもしれません、私の好きな英会話番組に「ハートで感じる英会話」(だったっけ?)というのがありそこの表現を拝借すればTell,say,speakの温度の違いとでも言いましょうか、意志を伝えると言う意味での温度は「話す」「告げる」「云う」等が強く「言う」「しゃべる」には「口を動かし発声する」意味合いの方が強く感じます、なのでNovaうさぎの主張としては「意志を告げる」ことの前提であり語学修得の入り口である「発音する」ことに重きを置いた「しゃべる」を選ぶ必要があったのだと思われます、がしかし!「いっぱい聞けて、いっぱいしゃべれる(ノバなら!)」では言語文科を扱うNova的にはビミョーだったのでしょう、「美しい日本語」等といった書籍も多く登場する昨今、正しくないとされている言葉を英会話教室が使えば信用問題に関わりかねない、きっとCM製作者のみなさんの間で十分に検討されたのでしょう、そしてビミョーすぎるキャラクターの効果もあって今では誰もが知るフレーズになっています。でもなぁ、言わないなぁ、「しゃべられる」。
なので私はこの「ら」抜き言葉は、日本語の正当な進化だと考えています。例えば「映画を見られる」という言葉、今の日本では「?」です、なぜなら受動と可能が同居してしまっているからです、今の日本語の常識では「見られる」といえばほぼ全ての人が受動態、つまり「ジロジロ見られてイヤだわ!」等の使い方を連想するでしょう、そして可能を現すには「見れる」を使うでしょう、こう考えれば言葉がもつ一番の使命、コミニュケーションを円滑にすると言った点ではすばらしい進化と考えられます、もちろん「ら」抜き言葉以外にも「チョーヤバい」のように「乱れた」と言われる進化も数多くありますが、言葉は世に連れ世は言葉に連れ、形は変って行って当然だと思います。もともとの美しい日本語にこだわって意味の通じない言葉をひねもすのたまっていても一番大事なコミニュケーションは得られない。
こと流行に関して言えば言葉の進化は地層に匹敵する程に時代を語る、その時代の文化を現すにはその当時の流行を現す言葉を使えば容易に連想できるからである、代表的なものは、
「風流」「はいから」「ナウい」「トレンディ」「イケてる」「チョベリグ」「カリスマ」等といったところでしょうか、「カリスマなにがし」という表現の寿命は一体どのくらいだろうか?20年後の日本では「チョベリグ」文化がリバイバルヒットしているかもしれない!チョーヤベー!白いアイラインゲッツしておかんとヤングじゃないと思われる!きっと暴れんぼう将軍は当時ギンギンにナウかったのでしょう。「さっすが将軍!カブいてるゥ~!」と町娘たちはドキムネだったのでしょう。
なのでこれからも日本語文科の動向を注意深くチェケラしていこうと思います。